メンタルヘルス後進国

今までやってきたことはすべて無駄だったのだろうか。

そう思える瞬間が今だ。

 

経緯は省くが、二年半の休職を経てカウンセラーのもとへ通うことになり、休職三年目を目前にして復職した。

そのカウンセラーを仮に佐野さんとしよう。

佐野さんと自分は二週間に一回のカウンセリングを行っていた。カウンセリングに通いはじめた頃は、まだ復職するかそれともこのまま退職するかにも迷っている状態だったので、佐野さんとの対話の中で「復職する」という自分の意思を固められたのは自分にとっては良いことだった。

 

ところがある日、佐野さんは失踪した。

本当に何の前触れもなく消えてしまった。

「ではまた再来週、復職についての話を詰めていきましょう」といつも通りの診察を終え、二週間後の診察当日に病院から「佐野先生は体調不良のため今日のカウンセリングはお休みです」と連絡が入った。そんなことは初めてだったのだが、寒くなり始めたころだったのでそんなこともあるだろうと思い、自分は特に不審には思わなかった。

だが、いつまでたっても次の予約に関する電話が病院からかかってこない。

あらかじめ設定しておいた復職までの期間が迫っていたし、佐野さんも「もう職場には復職の準備について話してある」と言っていた。

さすがに変だなと思い、こちらから病院に電話をしてみると「佐野先生は少なくとも一ヶ月は休みです」と返事があった。

 

純粋に驚いた。申し訳ないが、佐野さんの体調よりも「じゃあ自分の復職はどうなるんだ」という疑問が勝った。

職場への恐怖が強かった自分は、職場との連絡のいっさいを佐野さんに任せていたので、このまま一ヶ月、もしくはそれ以上佐野さんが休むと復職できなくなってしまう。詳しい事情の説明は避けるが、そういう状況だった。

こちらからのコンタクトに、さすがに病院側も事態が切迫していることに気がついたのか、復職にあたっての新しい先生を用意してくれた。

佐野さんはどうやら自分と同じで、精神的にまいってしまったらしい。そのようなことを新しい先生から聞いた。

 

この新しい先生を後藤先生としよう。実は、後藤先生の診察も何度か受けたことがある。ただ、自分の精神状況、職場への恐怖や不信感を説明してきた相手は佐野さんだ。

佐野さんから引き継ぎを受けた、と言っていた後藤先生は、やはり自分の病状のことについては、ほとんどなにも頭に入っていないようだった。

彼はただ「この患者を復職させる」ということしか頭にないようで、つくづく「なんでこのタイミングで佐野さんは消えてしまったんだろう」と自分は絶望した。

 

佐野さんに半年かけて行った心理状況の暴露を一時間ほどですませ、後藤先生は復職への準備を進めていった。後藤先生の本職はおそらくカウンセラーではない。

佐野さんとのカウンセリングは毎回一時間ほどだったが、その後の後藤先生とのカウンセリングは、実質カウンセリングではなく五分ほどの面談だった。佐野さんから仕事を引き継ぎました、という顔合わせの時だけ、一時間ほどの話が出来た。

 

自分は、カウンセリングがしたかった。

佐野さんとのカウンセリングが性に合っていたのもある。

復職はする、けれど、復職をする前、復職直後、そして復職期間を終えて、通常業務に移っていく。

その過程での自分の心の動きを、他人の目で観察しておいてもらいたかった。

自分で自分のことを信用できなかったからだ。

自分にとってカウンセリングを、定期的に歯医者にいくようなものにしておきたかった。その程度にはまだ不安定だった。

 

この病院に新しくカウンセリングの先生が来るのは4月です、と言われたのは12月だった。

そこで、繋ぎになるカウンセラーを自力で探せばよかったのだが、自分が住んでいるのはメンタルヘルス後進国の日本、そしてド田舎だ。今はネットでもカウンセリングを受けられるようだが、それに頼る気にはなれなかった。

後藤先生に再度自分の状況を説明した時にもほとほと思ったが、自分の精神状況をいちから他人に分かるように説明するというのは、本当に疲弊する作業だ。そして、聞いている方も同じなのだろう。だから佐野さんは消えてしまった。

佐野さんへの一抹の後悔もあった。もちろん、佐野さんの患者は自分だけではない。だから、自分のせいで佐野さんが精神のバランスを崩したわけではないとは分かっている。それでも、佐野さん以外のカウンセラーを積極的に探す気になれなかったのは本当だ。

 

そういうわけで、簡潔に言うと(あまり思い出したくないのだが)、自分は三年近く怯えて逃げ回っていた職場の人との面談をし、復職をし、今も仕事を続けている。自分ひとりの力で。

もちろん家族の支えはあったが、肝心なところで専門家の手は借りることができなかった。

 

1月から復職し、必死にやってきた。

配慮を受けて、仕事量は同僚に比べれば少ない。だが、職場そのものへの恐怖がある状況で、職場では必死にならなければ生きていけなかった。

精神状況は良い時もあれば、悪い時もあった。

ただ、それを打ち明ける場がなかった。佐野さんがいなくなったので。

自分の不調や好調を伝え、客観的に評価してほしかった。特に、復職というデリケートな時期にあっては。

 

タイミングが悪かったとしか言えない。

結局、佐野さんは退職し、故郷に帰って療養中だという。

自分は必死に復職し、4月頃からやや精神の不調を感じるようになった。5月にようやく後藤先生を引き留め「新しいカウンセリングの先生はまだ入っていないんですか?」と聞いた。新しいカウンセリングの先生は、いつのまにか入っていた。

それでようやくカウンセリングが再開した。けれど、それでも遅かったようで、7月に入る今になっても、精神的にも体力的にも削れてすり減っていく感じがする。毎日へとへとで、とにかく仕事に行くのが怖い。

新しいカウンセリングの先生は、自分の復職に至るまでの経緯を見ていたわけではないのもあるが、あまり話も噛み合わない。

 

今日、後藤先生に「精神的にまいっている。週5勤務がつらい」と言うと「週5で辛いの?僕なんか週6勤務だよ。日曜日は学会だから、実質週7勤務。なんでつらいの?一生懸命がんばりすぎなんじゃない?自分をよく見せたい傾向があるのかな?僕なんか40パーセントの力でしか仕事してないよ」

とまくしたてられた。

 

タイミングが悪かった。

佐野さんが消えなければ。

後藤先生がもっとまともな人の心のある医者だったら。

 

自分は普通に仕事をしたいだけだ。

なのに、なぜこんなに惨めな気持ちにならなければならないんだろう。

仕事が合わないわけではない。

自分がしたいのは愚痴じゃない。

メンタルヘルスの専門家に、話を聞いてもらい、精神の不調への療法と対処法を教えてもらうことだ。なぜそれが不可能なんだろう。

毎日なんとかやっているが、限界が近いと思う。